トップページへ戻ります。社団法人舞鶴青年会議所理事長 松本 泰 がこのホームページを閲覧いただく皆様に御挨拶申し上げます。青年会議所の説明と特徴、その活動内容についてご説明いたします。社団法人舞鶴青年会議所が日々行っている活動をご紹介致します。社団法人舞鶴青年会議所は明るいゆたかな社会を目指し、地域に対して様々な取り組みを行っている団体です。 このページでは大好きなまち 舞鶴への取り組みについてご紹介します。 社団法人舞鶴青年会議所が舞鶴市PTA連絡協議会様と共に毎年開催します市長旗チビッコソフトボール大会について掲載しております。お問い合わせはこちらから

ふるさと舞鶴再発見への取り組み

「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」

〜過去・現在・そして未来を築く心〜

  この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。

 舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。

 冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。

 このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。

 

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■ふるさと舞鶴・歴史スポット特集 10月

●舞鶴の一揆(いっき)


 「一揆」というと、農民が暴動を起こして武士と戦争になるイメージがあるかもしれません。
しかし実際の当時の一揆は、民衆達が一致団結して出した行政への意見を、誰かが代表してお城に伺うという行為がほとんどでした。

 一揆の代表で来た人は、決裂して暴動になる事を恐れて、お城の周りの人々にとても良いおもてなしを受けたようです。
 舞鶴でもこういった一揆は3回起きたと言われ、すべて民衆の意見が聞き入れられているようです。


■現状
芸屋台 一揆の現実の姿も、舞鶴の一揆の歴史も、あまり知られる機会がありません。
 もっと掘り起こしていけば、さらに当時の人々の生活の様子が見えてくるのではないでしょうか。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

●牧野親成(まきのちかしげ)のまちづくり 朝代神社

元京都所司代の牧野親茂は厳正な政策を行い、城下に色町を置かず、京極家の内紛で破壊された田辺城の城門の改築工事を行った。また、朝代神社、大川神社、円隆寺などの祭礼を大いに奨励しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

■現在
神社仏閣の祭礼行事は今でも盛んに行われています。そして親成が奨励した「芸屋台」が現在にも祭り等で受け継がれています。

円骼

 

●江戸時代の舞鶴の廻船業(かいせんぎょう) 廻船問屋

 

細川氏の造らせた西地区の港町を中心に「北前舟」を使った各港町との交易が盛んで、江戸中期頃からは、日本海を西廻りに大阪へ北国の米を運ぶ航路が開け、大型船が就航しました。これを北前船(当時は日本海側を前とした)といいます。舞鶴もその航路にあたり、由良川河口の「神崎」をはじめ、東舞鶴の「市場」などにも、北前船主が現れます。さらに江戸時代後期ごろから、神崎、由良、竹屋を中心に廻船業が栄えました。
江戸時代末期になると、由良川を利用して高瀬舟を使い、河川ルートと陸路を交互に伝って大阪方面へ物資を運ぶ物流ルートが出来上がりました。そしてルート上に領地を持つ藩は税金の収入を得ました。

 

■現在

 

舞鶴魚屋付近いまでも西地区には回船時代の風情漂う港町が残されています。舞鶴は丸木舟の古来より、海運の歴史を持つまちであるという観点からも、見逃せない歴史的資産のひとつです。

 

 

 

 

 

●近現代の対岸貿易(たいがんぼうえき) 対岸貿易

田辺城下町の交易の中心として廻船問屋で栄えた竹屋町にかわり、明治になると汽船や船便が住吉入江や高野川河口から発着していました。明治20年に入り、シベリア鉄道が着工されると、日本海側の良港であった舞鶴は対岸貿易港として注目されました。
西地区の港では、明治39年(1906)、舞鶴とウラジオストク間に航路が開かれ、対岸貿易として第一船が舞鶴を出港しました。

■現在

対岸貿易日本海を舞台にした舞鶴の対岸貿易は現在に至るまで活発で、様々な国と交易をすることになります。経済的観点からも舞鶴の将来を担う一翼の要素といえるのです。

 

 

 

 

 

■ふるさと舞鶴・人物特集 10月

●京極 高知(きょうごく たかとも)

元亀3年(1572年)〜元和8年8月12日(1622年9月17日)京極高知

 

 安土桃山時代から江戸時代に活躍した戦国大名。丹後藩の祖。 関ヶ原の功により丹後一国および丹後守の称号を与えられ国持大名となる。京極高吉の子。母は浅井久政の女(京極マリア)。兄に高次がいる。正室は織田信澄の娘、継室は毛利秀頼(尾張守護斯波氏)の娘。嫡男は高広、三男に田辺藩主高三、養子に峯山藩主京極高通、娘婿に八条宮智仁親王、京極高通、六郷政勝。
 京極氏は、南北朝時代に「バサラ大名」と呼ばれ、豪華絢爛な室町文化の隆盛に大いに影響を与えた佐々木道誉の末裔です。
 若い頃から豊臣秀吉に仕え、長年の功績により羽柴姓を許されるまでになっていました。秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ケ原の戦いでも大谷吉継隊と戦う等、最前線で抜群の戦功を挙げ、戦後細川氏に成り代わって丹後を与えられ、国持大名として京極丹後守と称すことを許されました。

 

●京極 高三(きょうごく たかみつ)

慶長12年(1607年)3月17日〜寛永13年9月13日(1636年10月11日)

 

丹後田辺藩(舞鶴藩)の初代藩主。丹後国主・京極高知の三男として丹後田辺城で生まれました。
 父が死去すると、その所領は高知の三子で峰山・宮津・田辺(舞鶴)に分けられることとなり、高三は加佐郡35000石を相続し、田辺藩(舞鶴藩)の初代藩主となりました。
 この時丹後から舞鶴はひとつのまちになったのです。
 その後、京極家は孫の代で豊岡に転封となりましたが、娘婿にあたる牧野富成の子孫が舞鶴藩を継承することになります。


 

 

 

 

●京極 マリア(きょうごく まりあ)智性院
天文11年(1542年)頃〜元和4年7月1日(1618年8月20日)

 

 戦国時代の女性。近江国の浅井長政の姉として小谷城で生まれました。
 近江国は元々京極氏が支配していたのですが、それを奪ったのが浅井氏でした。
 その京極家の京極高吉に嫁ぎ、生まれた子の一人が京極高知です。
 京極氏が織田信長に仕えた後、天正9年(1581年)に夫婦揃って安土城城下でグネッキ・ソルディ・オルガンティノ神父より洗礼を受け、洗礼名としてドンナ・マリアを授かりましたが、その数日後に夫は病死しました。
 後に豊臣秀吉がキリスト教を禁止した後も信仰を貫き、京、大坂で布教活動を行いました。

 関ヶ原の戦いの後、次男の高知が領した丹後国泉源寺村(京都府舞鶴市)に移り住み、高知の庇護の下、此御堂という建物を中心に布教活動を行いました。
 地元では「泉源寺様」と呼び慕われ、現在は智性院に位牌が残されています。

●過去のふるさと舞鶴再発見

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