トップページへ戻ります。社団法人舞鶴青年会議所理事長 松本 泰 がこのホームページを閲覧いただく皆様に御挨拶申し上げます。青年会議所の説明と特徴、その活動内容についてご説明いたします。社団法人舞鶴青年会議所が日々行っている活動をご紹介致します。社団法人舞鶴青年会議所は明るいゆたかな社会を目指し、地域に対して様々な取り組みを行っている団体です。 このページでは大好きなまち 舞鶴への取り組みについてご紹介します。 社団法人舞鶴青年会議所が舞鶴市PTA連絡協議会様と共に毎年開催します市長旗チビッコソフトボール大会について掲載しております。お問い合わせはこちらから

ふるさと舞鶴再発見への取り組み

「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」

〜過去・現在・そして未来を築く心〜

  この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。

 舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。

 冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。

 このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。

 

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■ふるさと舞鶴・歴史スポット特集 6月

 

●一色軍記(いっしきぐんき)

竹野神社

 戦国時代末期の一色家と細川家の戦いを物語にしてある書物です。
 「三国志」や「太平記」のような、「軍記物(ぐんきもの)」と言われるお話です。
 これによれば一色義道は建部山城を本拠としています。その子の義定が英雄として描かれているようです。

 

 

 

竹野神社■現状

 

 人間関係やストーリーが面白くなるようにフィクションされていて、歴史の資料としてはいまいち信用できませんが、今後、地元の歴史のまだ知られていない部分を楽しくみんなに知ってもらうには良い題材かも知れません。丹後町の竹野神社に保管してあります。

 

 

 

●建部山城(たけべやまじょう)

 

建部山城 丹後国加佐郡(現在の京都府舞鶴市下福井)にあった室町時代から戦国時代にあった。室町時代に栄えた守護大名一色氏の根拠地。
 鎌倉時代に足利泰氏に建てられたとも、南北朝時代1336年に南朝に味方した豪族によって築城されたとも伝えられています。
 室町時代、明徳の乱という戦で、山名氏という有力な守護と戦った一色氏が舞鶴を含む丹後を与えられて、代々本拠地にしたとされています。
 1579年織田信長の命を受けた細川藤孝が丹後を攻めて来て、攻め落とされたといいます。その後、信長より丹後統治を任された細川藤孝は、平地部に田辺城を築城したために、建部山城は廃城となりました。建部山城

 

■現在

 

建部山  旧陸軍が砲台を設置する際に城跡は破壊されましたが、一部遺構が残っています。標高315メートルと周囲の山よりもやや高く、同時に「田辺富士」「丹後富士」と呼ばれる優美な形をした山で、加えて山頂から眺める舞鶴湾などの景色が絶景であるため、ハイキングスポットとなっています。また、山頂には旧陸軍の砲台跡なども残っており、近代史の探訪も兼ねることができる。

 なお、現在山の名を読む際には「たけべさん」が一般的になっています。中腹にあったとされる「笛原寺」は移設されて、今の松林寺になっています。

 

●中山城(なかやまじょう)

 

中山城 大雲川(由良川)から進入する敵に備えて配備されたと言われる難攻不落の山城。一色氏の城であり、建部山城落城後、中山城に立て篭もった一色義道は、ここで中山幸兵衛(沼田清延)に討たれたと一色軍記には書かれています。しかし沼田氏は細川氏の一門衆であり、ここでの登場は信憑性がありません。ただし、貫幸兵衛(読み方不明)という人が治めていたことは事実なようです。

 

 

■現在

 

中山城 尾根の通路が至る所で堀切(ほりきり)に分断されている特殊な城跡です。山城としては比較的登りやすい状態で残っています。堀切が多い原因は謎で、何らかの理由で城の規模を縮小した為とも考えられています。

 

 

 

 

 

 

 

■ふるさと舞鶴・人物特集 6月

 

●一色 義道(いっしき よしみち)

?〜天正7年(1579年)

 

 戦国時代、安土桃山時代の武将・大名。丹後の大名一色氏の当主。一色義幸の子。一色義定(義俊、満信)の父。義通。式部大夫。左京大夫。
 丹後の一色氏は元々室町幕府の四職の一家であったが、戦国時代には没落の一途をたどり、丹後の守護職も隣国の若狭武田家に奪われる有様で、かつての守護家の権威を利用しどうにか実効支配を続ける状態でした。
 1558年、父の隠居により家督を継いだ。弟の一色義清を吉原城に送り、丹後の奥三郡の統治につとめました。
 1568年、織田信長が上洛すると信長に急速に接近して親交を深め、1575年の越前一向一揆討伐には丹後水軍を駆使して参陣し、信長から丹後一国を安堵されました。
しかし、信長が焼き討ちした比叡山の僧侶や追放した将軍・足利義昭を匿ってしまったため、信長の怒りを買って1578年から信長の命を受けた明智光秀と細川藤孝率いる織田軍に攻められることとなります。翌年に入ると万策尽きて居城の建部山城も落城。但馬に逃亡を企て、中山城(京都府舞鶴市中山)に身を寄せました。
 最期については、城主の中山幸兵衛(沼田清延?)に裏切られて殺されたとか、逃走中に病死したなど、諸説飛び交っています。

●一色 義定(いっしき よしさだ)

?〜天正10年9月8日(1582年9月24日)?)

 

 一色氏の当主。一色義道の子、別名義有、義俊、満信。通称五郎。妻は細川藤孝の娘の伊也(『一色軍記』では”菊の方”)。
 剛勇に優れた猛将で、父の義道と共に織田信長軍の侵攻を退けていたといいます。父の死後、家督を継いで一色氏の残党を率い、弓木城で徹底抗戦しました。
 このため明智光秀は、細川藤孝の娘・伊也と義定を結婚させることで和議を結びました。その後は信長に仕え、山内一豊の馬のエピソードで有名な、1581年の京都御馬揃えにも出席しており、甲斐武田氏の討伐にも細川氏と共に従軍しています。
 1582年、本能寺で細川が明智を見捨てると知ると、明智方に付きました。山崎の戦いで明智光秀に味方したが、藤孝の婿であったため秀吉には当初は黙認されたものの、やがて細川親子に宮津城の呼び出されて討ち取られることになります。城下に控えていた雑兵100人も、松井康之、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、その勢いで弓木城も降伏させられました。なお、妻の伊也は降伏した際に、実家に戻されました。

 

●細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)

天文3年4月22日(1534年6月3日)〜慶長15年8月20日(1610年10月6日)

 

細川藤孝 戦国武将で歌人。幼名は萬吉、通称は与一郎。兵部大輔、侍従、二位法印。幽斎玄旨と号した。足利将軍家の奉公衆三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男で、母は著名な儒学・国学者清原宣賢の娘・智慶院。晴員の兄の和泉守護細川元常の養子となる。正室は若狭熊川城主沼田光兼の娘・麝香。嫡男は細川忠興。

 12代将軍・足利義晴のご落胤であるという説があります。この説が事実なら、足利義輝・義昭の庶兄にあたることになります。
 義昭に従って流浪の旅をしていた頃、貧しさのあまり灯篭の油にさえ事欠き、仕方なく社殿から油を盗んだという逸話があります。
 織田信長に臣従したときに山城の国の長岡(現在の長岡京市)を拝領し、長岡(ながおか)姓を称しました。関ヶ原の戦いの後は細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられました。
 幽斎は、剣術等の武芸百般、和歌、茶道等を修める当代随一の教養人でした。剣術は塚原卜伝に学び、弓術・弓馬故実(武田流)にも長けていました。力も強く、京都の路上で突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したそうです。
 三条西実枝(さねえだ)に古今伝授を受け、三条西公国に伝えるまでの間、二条派正統を一時期仮に継承していました。当時唯一の古今伝授の伝承者であり、関ヶ原の戦いのときに後陽成天皇が勅命で幽斎を助けたのは、古今伝授が途絶える事を恐れたためと言われています。
 門人(弟子)には後陽成天皇の弟・八条宮智仁(ともひと)親王、公家の中院通勝、烏丸光広などがいました。島津義久は幽斎から直接古今伝授を受けようとした一人で、幽斎が義昭に仕えていた頃から交流があったそうです。
 八条宮が幽斎から古今伝授を受けた「古今伝授の間」は、幽斎の孫で熊本藩主となった細川忠利が造営した水前寺成趣園(熊本市)に大正時代に移築されています。
細川幽斉 とても愛妻家で、側室を持ちませんでした。親友の明智光秀も同じく、正室ひとりだけを愛しました。

 細川家といっても、分家であり、養子に行った先もまた細川家の分家でした。
文武両道の英雄で、才覚ひとつでのし上がり、本家の京兆家(細川家の代々管領を輩出する家)を凌ぐ大名になりました。足利将軍家のご落胤であった説も関係しているかも知れません。
 戦乱で荒れ果てた当時の京都において、まさに期待のスーパーヒーローの登場でした。
 若い頃は足利将軍家を復興させるべく奔走していましたが、やがて織田信長に出合い、織田家に仕えることになります。明智光秀とは、共に足利家の為に働き、織田家に仕えることになった親友でした。畿内の足利家ゆかりの古い勢力に対抗すべく、名門の細川と明智は重く用いられました。藤孝は近畿で活躍し、一色氏を倒して丹後を与えられ、田辺城を築きます。そして約20年間の舞鶴でのまちづくりを始めます。
 細川藤孝は武人としてだけでなく、文化人としても一流であり、幼い頃から母方の実家であり公家の清原家で最先端の文化レベルを身に着けていました。舞鶴におけるまちづくりでも、当時の都の芸能文化を誘致し、民衆の目に触れるところで行わせ、吉田の桜や金剛院の庭の言い伝えとなるような雅な室町文化を舞鶴に取り入れつつまちづくりを行いました。
 1600年、関ヶ原の戦いの直前、息子の忠興が東軍についた為に田辺城に籠城しました。
(田辺城篭城戦参照)ほとんど民衆の500人で15000人の西軍に抵抗し、2カ月もちこたえました。そして天皇の命令で和睦します。9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入りました。
 忠興が関ヶ原の戦いの戦功により、豊前小倉藩を与えられましたが、幽斎は小倉には行かず、京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれています。幽斎はとても舞鶴の地を愛していたので、離れたくなかったそうです。

●過去のふるさと舞鶴再発見

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