トップページへ戻ります。社団法人舞鶴青年会議所理事長 松本 泰 がこのホームページを閲覧いただく皆様に御挨拶申し上げます。青年会議所の説明と特徴、その活動内容についてご説明いたします。社団法人舞鶴青年会議所が日々行っている活動をご紹介致します。社団法人舞鶴青年会議所は明るいゆたかな社会を目指し、地域に対して様々な取り組みを行っている団体です。 このページでは大好きなまち 舞鶴への取り組みについてご紹介します。 社団法人舞鶴青年会議所が舞鶴市PTA連絡協議会様と共に毎年開催します市長旗チビッコソフトボール大会について掲載しております。お問い合わせはこちらから

ふるさと舞鶴再発見への取り組み

「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」

〜過去・現在・そして未来を築く心〜

  この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。

 舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。

 冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。

 このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。

 

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■ふるさと舞鶴・歴史スポット特集 3月

 

●五老ヶ岳(ごろうがだけ)

 

 京都府舞鶴市の中央部、東舞鶴と西舞鶴を分ける山。標高301m。五老ヶ岳

  『沙石集』という鎌倉後期の本に、丹後国の御家人の話があり、五郎という人物が登場します。遺産分配に、兄弟の一人に単独相続させ、ほかの兄弟は暮らしに困らぬ程度の田地をもらって、ひきこもるなり出家して暮らそうと相談する話です。これと同じ話を伝承している一族があります。

 代々、五郎右ヱ門、五郎左ヱ門、五郎兵衛、五郎吉などと名乗り、もと鎌倉の御家人で、この地方に来て、南北朝のころ農民化したといい、その伝承では、水軍を統べ、浮島に八幡神社(嶋満神社)をまつり、五郎岳は湾口の見張り所で、五郎の名でよばれたという伝承です。この一族は、東地区一円にひろがっており、中には、家号を五郎と名のっている家もあるそうです。

 

■現在五老ヶ岳

 山頂から見える、複雑に入り組んだリアス式海岸と、日本海に浮かぶ緑の島々が広がる景色豊かな山。

また、五老岳にそびえる高さ50mの展望タワーである五老スカイタワーの展望台からは、「近畿百景第1位」に選ばれた舞鶴湾、舞鶴市内の景観を360度のパノラマで満喫することができ、大正13年に国の天然記念物に指定された、オオミズナギドリ最後の楽園と言われている冠島の島影も見ることが出来、初日の出を見る好スポットでもあります。

 

●山城(やまじろ)

 

  田辺城の様な「平城」が出来たのは戦国時代末期のことであり、元々城とは「山城」でした。戦が起きた際には山の上に築いた(山を加工した)城で臨戦態勢を整え、普段は山のふもとの村で住まいを持ったそうです。

 

■現在

平城の様に立派な城門や石垣やましてや天守閣があるわけではありませんが、これらの歴史的遺産は私たちと同じ民衆の生きる為に行動を起こした手と知恵によって築かれたものです。そこから我々は中世の人々の心を感じたいと思います。

 

■ふるさと舞鶴・人物特集 3月

 

●足利 泰氏(あしかが やすうじ)

建保4年(1216年)〜文永7年5月10日 (1270年5月31日)

 

  鎌倉時代の源氏の武将。一部丹後史で建部山城を築いたとされる人物。 足利尊氏が天下を取るまでの足利家の歴史の中では、最も家を栄えさせた当主。 室町幕府を作った足利尊氏の高祖父でもあり、後に舞鶴を含む丹後地方を治める一色氏の祖・公深(こうしん)の父にあたり、なおかつ1236年から「丹後守」という丹後の支配権を与えられていたので、建部山城築城は定かではないにせよ、何らかの影響はあったと考えられます。

 1251年、鎌倉幕府から隠居に追いやられて以来は、泰氏も足利家も日の目を見ることは無くなり、足利尊氏の誕生を待つ事となります。

 

● 一色 満範(いっしき みつのり)

応安元年/正平23年(1368年)〜応永16年1月6日(1409年1月25日)

 

  一色氏の当主、一色詮範の子。兵部少輔、右馬権頭、修理大夫。子は一色義貫、一色持範、一色持信。 父とともに明徳の乱で山名氏と戦い、軍功を収め、幕府内での一色氏の地位を高めました。 明徳3年(1392年)正月には丹後守護職にも補任され、父とともに建部山城(舞鶴市)を築城し、丹後国を地盤とすると、応永の乱では、大内弘茂を打ち滅ぼし、幕府中枢の地位をも確固たるものとしました。

 満範の活躍により、丹後の他、三河国なども治め、三ヶ国を有する有力守護大名となり、一色家の最盛期を築きました。 J8

 

● 一色 義貫(いっしき よしつら)

(1400年(応永7年)〜1440年6月14日(永享12年5月15日)

 

 室町時代前期の守護大名。一色満範の子。官位は兵部少輔。左京大夫。修理大夫。初名は義範。

 三河国・若狭国・丹後国、そして山城の四ヶ国(他に尾張海東郡・知多郡分郡守護)を兼ねる有力守護大名となり、数々の武功を挙げました。その功績により、四職の一人となって幕政に参与しましたが、乱暴な6代将軍足利義教の代になると、供奉を放棄するなど次第に対立し、一時幕政から遠ざけられました。

  管領の畠山満家らの仲介もあって、義貫は再び幕政に復帰しましたが、1440年、大和に出陣中に突然義教から謀反人を匿った罪に問われ、追討に来た武田信栄に腹背を攻められて敗北。同年5月15日、大和信貴山の竜門寺で一族と共に自害してしまいました。 義貫は四ヶ国を兼ねる有力守護となったために義教に警戒され、謀殺されたと言われています。

●過去のふるさと舞鶴再発見

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